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夢の話と「わかる」ということ

最近、環境や生活リズムの変化もあってか、よく夢を見る。
こう書くと、私が見た夢について書くのかと思うかもしれないが、そうではない。「夢の話はつまらない話」とよく言われるからだ。

何故夢についての話はつまらないのだろうか? それは私的な経験をベースにしていることがほとんどであり、「わかる」ということが決して無いからだ。
例を挙げよう。私が一番最近見た夢は「日本史のテスト勉強を全くせず、結果がボロボロだった」というものである。私は夢の中で「勉強しなかった自分」をひどく責めた。後悔した。それは、私の高校の日本史のテストは、与えられた問題集からの出題が8割近くを占めていたからであるが、そうした感覚が他人に伝わることはほぼ無いだろうし、「そうなんだ、大変だったね」と言われるのが関の山だ。
それは、他人が「同じ夢」を見ることは決して無いからであるし、「話」においては簡潔さやわかりやすさ、そして一貫性といった「わかりやすさ」が求められるものであるが、夢はそうしたものを著しく欠いているからである。
無論、それを「物語」に昇華させれば「面白く」することも可能だろうが、そうして手を加えられたものは、最早「夢」とは呼べないだろう。

ヒトは「わからない」ことによってストレスを感じる一方で、「わかる」ということに対して快感を覚える。「相手をわかる」というのは共感に他ならないわけだが、そうした感覚は、最も根源的なものであるとも言われている。
わかることによる快感は、他者が加わるとより大きくなる。他人と同じものを見て、感覚を共有することによる快感は、デート後に喫茶店で感想を語り合った時のことや、小学校でテレビを見た時のことを思い出してもらいたい(私の頃は何故か「ざわざわ森のがんこちゃん」を見る機会が多かったように感じる)。某動画サイトが発展したのも、このような感覚を重要視したからかもしれない。

一方で、「私にだけわかる」となると、優越感も加わって、より多くの快感が得られるだろう。ラストの部分を曖昧にするようないわゆる「考察ゲー」の評価が割れやすいのはこの辺が原因だと考える。
考察ゲーが考察されるためには、「考察しよう」と思われることが必要である。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、ちゃんと考察されるためには、過去作やその作品のラストまでのシナリオが素晴らしいという、ある種の「実績」に基づく「期待」が必要なのである。考察をした上でわからなかったならまだしも、最初から答えが存在しなかった場合、馬鹿を見るからである。

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